本かつお
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●なぜ気になったか
僕は他人の手を煩わせることは苦手。歳をとり、やむおえずケアしてもらうことになったら、日々どんな気持ちですごすのか不安になる。その不安を薄めるために読みたい
●読了感想
うんうん、確かに、そうそう、と思うことは多いけど、「ケアしケアされ」の考えとどう結びつくのだろう?、が多かった。「ケア」に関して掘り下げて考えたかったけど残念ながら期待外れ
アマゾンレビュー
●心に響いたフレーズ
- 今の日本社会においては、学校も会社も残念ながら「自発的隷属」を「いい子」「良い社員」とする風潮が残っていたりします。(中略)、そこに足りないのは「対話」です
- 大学で働いていると、「相手の顔色をうかがう」学生が本当に多いと思います。(中略)、「顔色をうかがう」のは、自分のしたいことではなく、イヤでもしなければならないこと。(中略)、しんどいことです
- 学生たちと話していると、「自分のモヤモヤやしんどい内容って、本当は誰かに話したいけれど、そんな重い内容を話してしまうと、相手に迷惑になりそうで、言えない」と言います
- この日本社会を覆う「生きづらさ」って、表面的にスムーズで、「他人に迷惑をかけたくない」という「思いやり」に溢れているからこそ、どんどんその裏側で溜まっていくもの
- 自分をそこまで傷つけてでも、他人に迷惑をかけてはならないのでしょうか。そんなに、自分より他人の方が大切なのでしょうか
- 「娘はめちゃくちゃ可愛いけど、めちゃくちゃ面倒くさい」存在。(中略)、娘のケアを通じて、娘からケアされてきました。そういうケアし合う関係
- (一歳の終わりから三歳にかけての娘の)「イヤイヤ期」を「絶賛自己主張期」とラベルを貼り替えたのは、 娘なりの「自己主張」=「意見表明」そのものとして受け取りたい、理解したい、と思っていたから
- 子どもへのケアをすること、子どもと一緒の時間を過ごすことによって、大切な何かを、親も受け取っています。ケアは本当に一方的なのだろうか、という疑問も湧いてきます
- 子どもが親の言うことを何でも聞いてくれた方が、親は楽だ。でもそれは、親のことを忖度する子どもに育てることであり、子どもの自主性や主体性を奪うこと。
- 子どもが自分の思いを素直に伝えてくれるのは、親が受け取ってくれるはずだという安心感があるからです。その安心感を親や大人が潰してしまえば、子どもにとって本音を言うのは危険になるので、言わなくなります
- 今は令和の世の中かもしれないけれど、日本社会の基本的なシステムや認識は「昭和」で動き続けている
- 「自分の尊厳が護られていないのだから、他者の尊厳を大切にできない」「自分の権利を大切にできないのだから、他者の権利に想像が及ばない」これが、ケアレスな社会の根底にありそう
- はっきりさせておきたいことがあります。社会的な事象、特に未来に関わる複雑な事象に、「正しい答え」はない
- (障害のある子の)「ちがい」の理解よりも、空気を読んで同調圧力に従うことに必死になってきた中学生の私は、まさに他者を思いやる、という意味でのケアを放棄してきました
- 能力主義と生産性を大切にする、生産性至上主義のような論理こそ、この社会を息苦しくしている元凶
- 「他者の他者性」、他者と意見を完璧に一致させることは、原理的に無理なこと
- 他者の他者性に気づいた(「違いを知る対話」をした)後で、「ではどうするか?」という「決定のための対話」を行うと、決定の質が異なってきます
- 「共に思いやること」、そんな相互承認関係を続ける上で大切なのが、魂の脱植民地化
- 「〇〇だから無理だ、できっこない」、やってみることなく、頭でっかちで考えているだけの「理性の悲観主義」ではなく「実践の楽観主義」を
●目次
- はじめに
- 第一章 ケア?自分には関係ないよ!
- 一 「迷惑をかけるな憲法」
- 他人に迷惑をかけてはならない
- 都合のいい子!?
- 大人から学んだ「いい子」
- 二 しんどいと言えない
- 意見を表明する権利
- 他人の顔色をうかがう
- 苦しいことと苦しみ
- 三 自分自身を取り戻す
- ゼミで涙を流す学生
- ペラペラしない他者
- aboutnessからwithnessへ
- 四 面倒な中に豊かさがある
- 第二章 ケアって何だろう?
- 一 確かに面倒なのだけれど
- めっちゃ可愛く、めっちゃややこしい
- 存在をぶつける
- 意見表明の主体としての子ども
- 一方的にケアされる存在ではない!
- 二 自分へのケアと他人へのケア
- 子どもの「開かれ」
- 自分の人生へのリミッター
- 忖度の危機
- 作られた悪循環
- 偽解決を超えるために
- 三 他者へのケアの前に
- 支援か支配か?
- 関係性のダンス
- 同調圧力に異を唱える
- 誰へのケア?
- 四 互いが気にかけあう
- 自分へのケア
- 共に思いやること
- withnessで生活を回す
- 何を見ようとしてこなかったのか
- 第三章 ケアが奪われている世界
- 一 ケアのないわたし
- ケアレスとはなにか
- 同調圧力と「空気を読む」
- 自己責任とわきまえ
- ケアレスな社会
- 二 「昭和九八年」的世界
- 労働ファースト
- 最も眠れていない国
- 頑張れば報われる、の呪い
- 前時代の大成功、ゆえに
- 三 標準化・規格化の「大成功」の陰で
- 昭和の成功を支えたもの
- 銀行型教育システムへの囚われ
- 「正解」幻想
- 昭和的価値観の限界
- 四 ケアの自己責任化を超えて
- 「発達」の「障害」?
- 置き去りにしてきたケア世界
- 自分が学んだことはこれなのか!
- 「ちゃんと」のリミッターを外す
- 第四章 生産性至上主義の社会からケア中心の社会へ
- 一 生産性とケア
- 誰のための、何のための効率?
- 男性中心主義の外にある世界
- 能力主義の呪縛
- 「生産離脱者」の排除
- 二 責任の共有化で楽になる
- 依存先を増やす
- 関係性に基づくケア
- 懲罰ではなくエンパワーする責任
- 切り分けるのではなく、分かち合う責任
- 三 共に思い合う関係性
- 中核的感情欲求と向き合う
- 生き様の理解と支援
- 迷惑をかけるな、より大切なもの
- 他者の他者性に気づくこと
- 四 ケア中心の社会へ
- 己の唯一無二性とも出会い直す
- 魂の脱植民地化
- 葛藤を共に味わい社会化する
- できる一つの方法論
- おわりに
- あとがき
プロフィール
「観る読む歩く、釣る食べる、求められれば写真撮る」そんなマイペースな人生を淡々と・・・。